自由の歩き方 編集部
グルメ激戦地の北海道札幌市で、江戸前の寿司を提供する寿司職人の中原渡さん。映像業界、広告代理店を経験後なぜ寿司職人を目指したのか、独立までの道筋の描き方、そして飲食店経営の苦労を乗り越えて気付いた価値観をお聞きしました。
中原 渡(ナカハラ ワタル)
1983年生まれ / 出身地:北海道
北海道上川郡東川町生まれ。東川町に隣接する旭川市の高校を卒業後、札幌にある放送業界系の専門学校を経て、東京へ。その後、映画やCMを作る映像業界の特殊効果の業界に進む。その後、広告代理店の住宅情報誌の制作担当を経て、一年間に調理師学校へ。その後、東京で複数の寿司店にて5年間修業を経て、2016年に「鮨しののめ」をオープン。
鮨 しののめ(http://sushi-shinonome.com/)
2016年創業。札幌一の高級住宅街「円山(まるやま)地区」に佇む、本格的な江戸前鮨店。海の幸を新鮮なうちに味わう蝦夷前(えぞまえ)とは異なり、全国から取り寄せた魚介の旨みを手間暇かけて引き出すのが特徴。完全予約制、毎日仕入れる最高級の魚介や野菜などを使ったおまかせコース料理(12,000円~)を提供。8席のカウンター、モダンなセンスの光る食器など、こだわりの詰まった空間が地元の会社員から外国人観光客まで、幅広い方々を魅了している。
今回は、札幌市でこだわりの寿司店を営む中原さんに、独立のきっかけや飲食店ならではの大変さ、それを克服した経験などを伺いたいと思います。よろしくお願いします。
寿司職人にはずっとあこがれていたのでしょうか?
実は、寿司職人になり独立する前は、東京で映像業界の特殊効果を扱う仕事をし、その後大手広告代理店で住宅情報誌の制作をしていました。
寿司や料理の世界とはまったく違う業界ですね。
はい、学生時代はぼんやりと「映画の世界に関わる仕事がしたいなあ」と思っていて、高校卒業後に放送技術を学べる札幌の専門学校に行きました。そして、特撮映画などの爆破シーンを実際に現場で作る会社に。当然普通の場所ではできませんので、山奥の採石場のようなところで穴を掘り、火薬を仕掛けてスイッチを押すという(笑)。そこでは3年働きました。
貴重でハードなご経験ですね。面白そうな仕事ですが、なぜ転職されたのでしょうか?
今ではCGで作っているようなシーンを、実際に現場でやっているわけです。「CGがどんどん発達してきているけど、この仕事はこれからどうなるのだろう?」「長く続けるとこの世界でしか生きられなくなってしまうのではないか?」と段々不安や疑問がわいて、次の仕事を考えるようになりました。
映像業界から広告代理店、というのも思い切った決断だと思います。
当時から本も好きだったので、ふと「出版も面白いなあ!」と思い、大手広告代理店の一部門で住宅情報誌制作の仕事を見つけました。ここでの経験があったおかげで、ビジネスマナーやパソコンスキルといった、社会人としての素養を身に付けることができました。
ビジネス経験として大切なことですよね。そしてさらに転職を?
そこも3年続けましたが、会社が早期退職者を募り人員削減をする状況になり、どうしようかと考えていました。そんな中、あるマネージャーが転職活動をしていて、20社応募しても全敗だったと聞いて「大手の管理職でもすぐに転職先が決まらないのか」と恐ろしくなりました。それで「手に職だ!」と思ったんです。
それぞれの会社で危機感を覚えていたんですね。
じゃあ何をするかということで、魚釣りが好きだったので、「魚をきれいにさばいて和食を作りたい」くらいの気持ちで26歳から新宿の調理師学校に進みました。
和食の中でもなぜ寿司職人を目指したのでしょうか?
僕は最初から「寿司屋をやりたい!」と思って始めたわけではありません。26~7歳のときの僕が現実的に取捨選択して考えて、「寿司屋なら自分でもやっていける!」と考えたからですね。
調理師学校時代にお寿司屋さんでアルバイトをしていたのですが、ある日お客様が席からわざわざカウンターに来られて「「今日のサンマとっても美味しかったよ!ありがとう、ご馳走さま」という場面を見ました。それで「カウンター商売っていいなあ!」と。
そういえば前職まではエンドユーザーとの直接の接点がなく、ダイレクトに喜ぶ声が聞けるのがとても新鮮で達成感があると気付いたんです。
それはうれしい体験ですね。
はい。運営的な視点でいえば、油ものを使わないことや、一人で切り盛りするのも不可能ではないこと、魚の調理を極めれば一点突破で形になるんじゃないかとか。様々な視点から考えて、「寿司屋がいい!」と思うようになりました。
なるほど。寿司職人のスタートとしては遅めの印象がありますが、心掛けていたことはありますか?
寿司業界では遅い方でしたので、修業を始めたときから「まじめにやっていれば、技術は後からついてくる。独立のために、まずは店の運営や経営について学ばせていただこう」と思っていました。そして、日本料理の代表たる寿司店を開きたいわけですので、日本の文化や教養について学んでいました。
毎週、書道の稽古や美術館に通っていました。海洋大学の図書館で魚に関する論文を読むこともしていましたね。細かいところはわからなくても、とにかく本物や一流に触れるということを意識して過ごし、大切だと感じたことはノートに書き留めていました。
30代早めに自分の店を持ちたいという明確な目標があったので、そのために一生懸命な時間を過ごしました。
逆算することがポイントだったんですね。
修業についてはどう感じていますか?
修業はいいことも悪いことも両方学ぶことができ、視野も広がります。
1軒目の修業は、就職活動の一環として、有名な大規模店に修業に行かせていただきました。当時そこでは体育会系の文化が強く、社員の方が厳しい叱責や体罰を受けるのを目の当たりにして、自分にとっては反面教師になりました。
それに大型店では分業が進んでいて、すべての仕事を覚えるには10年以上かかるかもしれない、とも気付きましたね。
他のお店でも修業をしたのですか?
有名店での修業経験はその後の活動にもプラスになりますが、僕にとっては重要ではなくて、自分の力だけでどこまでできるか試してみたいと思うようになりました。
調理師学校を卒業して小さな寿司店で修業させていただいた後、恵比寿にある鮨屋小野さんに入りまして、そこで働いていた早川さんがお店を出されるということで、鮨早川を新規立ち上げからお手伝いしました。
さらに、早川さんの姉妹店である、鮨ニシツグさんでも立ち上げの手伝いをさせていただきました。
元々、北海道の札幌で独立して自分の寿司屋を持ちたいと思っていましたので、自分のお店をオープンするまでに2回の新店の立ち上げを経験できたのはとても大きかったです。
必要な備品や道具や食器などを紙に書き出して準備するなど、色んなものをゼロから計画して、少しずつ時間をかけて作っていく経験は自分でお店を出すときに大いに役に立ちました。
修業と2回の新規出店を経験し、立ち上げは順調に進んだのでしょうか?
2店舗の新規立ち上げを経験しましたが、それでも体験できなかったのがお金の集め方、資金繰りです。鮨しののめオープン後はとても苦労することになります(笑)。
独立当初は苦しかったのですね。
まず、オープンにあたり義父の飲み仲間で元銀行マンや不動産屋の方々に、事業計画の書き方や融資のことについて教わりました。自己資金がまったくなかったので、まず日本政策金融公庫と地元の旭川信用金庫の創業融資を活用させていただき、また親族にも一部お金を借り、借金だらけのスタートをいたしました。いま思えばかなり無謀な船出だったと思います。
2016年に開業してもしばらくはお客さんが少ないので、毎月どんどん預金残高が減っていくんです。しばらくはまともに眠れなかったですね。食事も全く喉を通らなかったです。お腹が空いているのに冷たい蕎麦が食べられないんですよ。
あるとき、歯が痛くて歯科に行ったら「虫歯じゃないですよ。歯を食いしばりすぎです」と。日々生きるのが精一杯でした。
資金面に加えて、集客も思わぬ壁だったんですね?
今となっては笑い話ですが、義父が通っていた飲食店経営者の方の結婚式に、「友人」ということで出させていただいたこともありました。そこで名刺を渡した何組かの方がお店にいらっしゃって。本当にありがたかったですね。
他には、近所の日本料理屋さんにお客様を紹介していただいたこともありました。
当時は自分のサービスの型もできていないし、思い出しても恥ずかしいことばかりです。がんばって営業中は暗い表情をしないようにしていましたが、やはりそういう空気は伝わっていたのかもしれません。
やってみて初めて知る困難、本当に大変だったのだろうと感じます。その状況をどのように乗り越えたのでしょうか?
2016年は経営も相当やばい中なんとか生き伸びて、2017年も重い気持ちの中スタートしました。「もうだめだ」と何度も諦めかけましたが、イベントに呼ばれたりして謝礼をいただいたり、お店を続けていると奇跡的にお金が入ってくることが何度もあり、食いつなぐことができました(笑)。
運転資金って本当に大事だと強く思います。
お客様との向き合い方に変化はありましたか?
開業後1年半くらいはグズグズと悩む毎日でした。その間もありがたいことに妻やその家族に叱責されるほど強く励まされ続け、その結果、悩む気持ちが吹っ切れる瞬間が来ました。毎日、お金のことばかり考えて仕入れするのはよくないなと。
思いきってやってだめだったらしょうがない、しっかりといい魚と材料を仕入れて、お客様のおもてなしに全力で集中しようという気持ちになりました。この頃、シャリも赤酢に変えて、気持ちも新たに仕事に取り組んでいきました。
妻や家族の励ましがなければ今の自分はありません。本当に感謝の気持ちでいっぱいです。
気持ちを切り替えたことで、いい影響や気付きはありましたか?
急にお客様もたくさんいらしてくれるようになり、自分の中でも何かが変わった気がしましたね。
そのとき気付いたのは、お金のために働いてはいけないということですね。お金はお客様の満足のあとに返ってくるものだと気づきました。経営が厳しいとどうしても「お金が欲しい」という気持ちが全面に出てしまいますが、それはお客様に伝わってしまいますし、お店として良くないですよね。
お店として大切なことを見つけられたんですね。お店の場所選びでは後押しがあったんでしょうか?
札幌市内で開業することは決めていたので、悩んだのはその場所をどうするか、ということでした。東京での修業後、ふと義父に「札幌に戻ってきて独立したらいいじゃないか」と言われたのも一つのきっかけになったと思います。
東京の店舗の賃料も見たことがありますが、本当に目が飛び出るほどの額ですね。料理人で資金調達のために実家を担保に入れてお金を借りているような方も多く、僕にはその選択はとれませんでしたね。
お店の雰囲気についてはどうですか?
静かな落ち着いたところでお店を持ちたいと思っていましたね。予約をとってもらったうえで、楽しみにお越しいただき、じっくりとコース料理を召し上がっていただくお店にしたかったんです。
忙しい方や飲み会前後の客層が多いエリアは避け、今の場所を選びました。自分の目が届くカウンター席にして、直接お客様の声をいただきながらやっています。
最後に、これから飲食店で独立を考えている方や、飲食業界に進もうと考えている方へのメッセージをお願いします。
僕自身まだまだこれからだと思っていますが、おごらずに、むしろ開業当時に感じていた不安を忘れずにやっていきたいと思っています。毎日、お客様がいらしてくれることが奇跡だと思っていますし、お店の創業を目指す方にとってもそうなのではないかと思います。
営業電話しかかかってこなかったオープン時の辛い気持ちを忘れずに、今もありがたくご予約のお電話を取らせていただいています。
お客様がお店を出られるときに「ごちそうさま。これで明日からの仕事も頑張れるよ!」と声をかけていただくことが多いのですが、お疲れのお客様が少しでも元気になり、明日への活力に貢献できていることは本当に嬉しく思います。自分が少しでも社会に役立てる存在であることに誇りも感じます。
これからの日々も決して慢心することなく、危機感をもちつつ、お越しくださるお客様とサポートしてくれる家族に感謝しながら精進していきたいですね。
中原さん、貴重なお話をありがとうございました!
自由の歩き方 編集部
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