自由の歩き方 編集部
会社員から独立するも廃業。再就職した会社は倒産…。
めげずに奮闘し、現在は東京、札幌(六本木とニセコを拠点)の2拠点を構え、便利屋業を全国で展開している合同会社ザイクル代表の高野さん。
独立はリスクが高いと感じながらも人生2度目の独立を選んだ理由を高野さんにお聞きしました。
高野 淳二(タカノ ジュンジ)
1976年 / 出身地:神奈川県
設計の専門学校を卒業後、高級家具屋の販売員や家具工房を経て、家具職人として独立するも挫折。設計事務所でまた会社員となるが、後悔したまま年老いていきたくないと2011年に家具職人のスキルを活かしたハンディマン(便利屋)サービスで2度目の独立を果たす。同年の11月には合同会社ザイクルを設立。
現在、合同会社ザイクルは大手アパレルショップや外資系企業、高級ホテルの定期メンテナンスや内装工事を中心に、東京、札幌(六本木とニセコを拠点)の2拠点を構え、全国展開でサービスを提供している。
「できないとは言わない。まずできることを探す」をモットーに、常に冷静沈着、物怖じしない姿勢はクライアントを安心させ、良好な取引関係を築くことを得意としている。
合同会社ザイクル (https://www.zycle.jp/)
東京、札幌(六本木とニセコを拠点)の2拠点を構え、便利屋業を全国で展開している合同会社ザイクル代表の高野さんに、ご自身の経験とともにフリーランスを勧める理由をお伺いしたいと思います。よろしくお願いします。
会社員とフリーランスを経験している高野さんですが、経歴を教えていただけますか?
設計の専門学校を卒業後、高級家具屋に就職して販売員をしていましたが、すぐに辞めて家具工房でアルバイトとして働き始めました。
アルバイトで家具製作のスキルやノウハウを身につけ200万円貯めて、浅草で家具職人として初めての独立したものの、無計画で起業知識もなく3年で廃業してしまいました。
その後、再就職しましたが、悔いの残る人生を送りたくないと2度目の独立にトライして、現在に至ります。
1回目の独立時代の状況を教えていただけますか?
振り返ると、周りの知人に良く見られたい、自慢したい気持ちが先行していた無計画な独立でした。
ど貧乏で、貯金がどんどん減っていき毎日ヒヤヒヤな生活で、毎月の売上も10万円以下でしたし、お金がなくて自宅用に家を借りることもできなかったので、当時借りていた工房に寝泊まりしていました。
何と言っても、1日200円の生活費でしたので、真夏のめちゃくちゃ暑い日に喉がカラッカラでも、自販機で110円のコーラも買えない時期はきつかったですね。笑
それは相当辛い経験でしたね…。
創業融資など創業支援制度は、利用されなかったのですか?
金融機関に融資してもらえる、という制度など知らなくて、人からお金を借りる「融資」というワード自体まったく頭にありませんでした。笑
1人でやっていくのに限界を感じていたところ、友人が経営するベンチャー企業に誘われて、就職しました。
※家具デザイナー時代の高野さん
転職されたベンチャー企業はどうでしたか?
創業5年で年商は6億円ほどでベンチャー企業としては順調そうな印象でしたが、365日中360日は働いていたので、今の時代ではありえないほど完全な超ブラック企業でした。笑
ただ、友人とその仲間とやっていた会社でしたので、部活みたいなノリもあり、仕事自体は楽しかった思い出も多いです。
事業としては、リサイクル品を引き取って修理をして販売したり、海外から買い付けた家具を販売したりしていました。私が入社してからはオリジナル家具の製作も開始して、私が家具のデザインをしてました。
給料は30万くらいだったと思いますが、ボーナスもありましたし、同世代の平均的なサラリーマンの給料よりはもらってたと思います。毎年、社員旅行は海外でしたし、羽振りは良かったと思いますね。(だから倒産したのかも…苦笑)
別に会社に対する不満はなかったですね。
その会社に倒産の危機に陥ってしまったときの状況を教えていただけますか?
今振り返ると恐ろしい話ですが、経営者はじめ、社内の大勢に危機意識が欠如していて、「会社はこのままだと潰れてしまう!」という危機意識が薄かったように思います。
実際に在庫や返品の山も膨れ上がる一方で、それらは「滞留しているお金」という意識もありませんでした。「癌」という漢字は、病垂れに品物の山と書きますが、まさにそのとおりだと思います。
毎月月末になると、経理担当は青ざめて支払先に支払いの遅延交渉。働いても働いても、お金が出ていってしまう…そんな負の空気感が当時の会社を覆っていました。
そんな状況だったので、全員で必死に足掻きましたが時すでに遅しで、会社は倒産してしまいました。
その上、当時の経営者はちょっとやばい『自称投資家』から個人的にお金を借りていたようで、投資家側の不良風の債権者の方々がご丁寧に会社までいらっしゃったこともありました。苦笑
倒産間際は私たちの想像を遥かに超える状況だったとお察しします…。しかし、その苦い経験が現在の経営に生かされているのですね。
倒産後、お仕事はどうなったのでしょうか?
この頃の私は家具職人で廃業を経験したこともあり、まだ独立とはリスクがあるものと思っていたので、設計事務所に再就職しました。けれども、再就職した会社の社長と言い合いになり、すぐ喧嘩別れしてしまいました。
その頃、倒産したベンチャー企業で一緒だった仲間の数人が起業した影響で独立も視野に入ってきたんです。
一度、廃業をご経験をされている中で、独立してからの収入面に不安はありませんでしたか?
今までは収入面の不安やリスクに怯えていましたが、このまま歳をとるのがとても嫌でした。
この頃は、古民家の再生事業をしたい、という夢もありましたし、何もせず後々後悔する人生は嫌だなという想いが強くなっていました。
また、初めての独立時に比べて、自分自身が経験を積んでやれることも増えましたし、家具職人という手に職を持っている自信もついて、次はなんとかなるだろう、と2度目の独立をしました。
独立されたのは、今から何年前になりますか?
独立当初の時代について教えてください。
2度目の独立は2011年2月なので、9年前ですね。最初は個人事業主として独立をしました。
最初、古民家のマッチングサービスをやろうとして、リサーチも深くして準備をしてました。
ですが、ちょうど東日本大震災が起きた年でして、まずは自分がやりたいことよりも、自分にできる仕事をやろうと考えるようになりました。
それが、震災の影響で急に需要が増えた棚や食器棚の転倒防止の取付サービスだったんです。
転倒防止の取付サービスをはじめたばかりの頃は、当時借りていた青山の事務所周辺で地道にチラシを配りまくって、連絡がきたら、取り付けに向かう感じでした。
コストをかけないアナログなスタートだったのですね。転倒防止の取付サービスがきっかけで事業が成長していったのでしょうか?
困りごとが明確だった年なので、次々に求められるサービスを開始したことが事業の成長につながったのだと思います。
震災が起きたその年は電力が足りず節電ブームもあり、夏前から、エアコンを使わずとも室内の温度を保てるよう遮熱フィルムの取付サービスも開始しました。
そのほか、既製品家具の組立や神棚の取付など、大きく言えば日曜大工に特化した便利屋で、B to C向けのサービスが当時は多かったです。
※店舗内装をしている高野さん
しかし、現在では大手アパレル会社や外資系企業の定期メンテナンス、高級ホテルの室内清掃などBtoBの取引も増え、事業も年々成長していますよね。
企業からは何がきっかけで依頼がきたのでしょうか?
メインクライアント様の多くは、ホームページの問い合わせフォームからでした。
「便利屋 東京」で検索すると検索結果のトップに表示されていたので、クライアント様の目に留まったのだと思います。
都内だけでもかなり多くの便利屋があるそうですが、インターネット検索で一番に表示されるほどの事業に成長したわけですね!
事業実績もホームページにアップし続けていましたし、地道にできることをずっと続けてきた結果だと思います。
独立してやりたかった古民家再生事業とはまったくかけ離れましたが。笑
どうして、独立してやりたかったことをせずに、便利屋業になったのでしょうか?
少しだけですが、稼ぐ楽しさを知りました。
やりたいことをしたい葛藤はありましたが、便利屋をやっていくうちに、「自分で稼げる」という新しい楽しさも見つけることができました。
それに、仕事は1つに別に絞らなくてもいいんじゃないかって思うようにもなりましたね。
1つの仕事に囚われず、柔軟に仕事ができることは、フリーランスの良さですね。
2回目の独立直後は収入ゼロの辛い時期もあったとお聞きしましたが、その当時も融資は利用しなかったのでしょうか?
取引先の大手外資系企業さんは締め日から75日後に支払われる契約で、約2ヶ月以上先まで入金を待たなければならない状況でした。スタッフや外注先への支払いなど資金繰りが厳しくなって、日本政策金融公庫から300万借りました。
ちなみにそちらの取引先さんとは、交渉に交渉を重ね、8年かけて支払い期日を締め日から15日後にしてもらいました。資金繰りはとても大切だと実感しましたね。
現在は借り入れなしですか?
300万円の融資の2年後に、さらに500万円借りました。
キャッシュフローの怖さを知ったので、キャッシュに余裕を持ちたいのと、事業投資のために追加融資を申請した形です。
では、現在の事業は順調に進んでいますか?
実は、2019年の8月はピークでとても苦しい時期でして、大赤字で外注先に支払いを待ってもらったり、社用車を売り払ったり、事務所も家賃が安いところに引っ越しました。
精神的にもとても辛い時期で、体もおかしくなっていました。
3~4ヶ月ほど20分に1回吐き気が起こる時期がありまして、今思えばおかしいと一発でわかるのですが、当時は仕事が忙しくて本当に異変に気が付きませんでした。
仕事仲間に相談して病院を勧められ、見てもらったところ、精神的な病気と診断されて、しばらく療養期間に入ってましたね。
今はもう完全回復して、仕事を再開しています。支払いを待ってくれた外注先や迷惑をかけた家族のためにも、また必死にがんばっていこうと思っています。
療養時期は家族と過ごす時間が多く、私の収入が激減した時も沢山サポートしてもらい、家族の大切さも実感しました。
今回の療養をきっかけに家族との接し方やワークスタイルに変化はありましたか?
仕事と家族の時間にメリハリはつけようと思いました。働くだけが家庭を支える者の役目ではないので、休む時はしっかり休もうというスタイルです。
「体が資本」をとても実感したこともあり、5年以上続けている合気道やピラティスに通う頻度も増やして、体と頭のメンテナンスも怠らずに行っています。
あとは、1歳の息子がいるので、一緒に時間を過ごしてリフレッシュしています。
育児は当然ながら親の役目ですが、フリーランスは時間の融通も効くので、妻に任せっきりにせず息子とコミュニケーションをとれているほうだと思います。
そんな息子さんに伝えたい仕事論があれば、教えていただきたいです。
仕事論とは少しずれてしまいますが、職業差別をするような思考にはなって欲しくないです。
実は、私は1度離婚してまして、その理由の1つに私の職業を前妻はよく思っていませんでした。便利屋の仕事の大半は人がやりたがらないような仕事をしますので、格好良くない印象があったのでしょう。
私自身は仕事を本気でやっていて公序良俗に反していなければ何でもいいと思っています。息子には、燃えるような本気でできる仕事を見つけてほしいです。
現在の勤務先に不満があり、フリーランスになりたい方々も多いと思います。
自分で稼ぎ、生活をするために必要なことを教えていただけますか?
依頼された以上のことができるように常に心掛けること。言われたことをこなすだけでなく、こちらからできることを提案する。
私のモットーとして、「できますか?」に対して、最初から「できないです。」とは言いません。やれることをまず探します。
それを繰り返すうちに、できないことができるようになるはずですし、経験値がアップすることで、自分で稼ぐ力は着実に身についていくと思います。
雑談ですが、便利屋の依頼であった私の専門外である出張マッサージや探偵のような調査代行にも対応し、お客様に満足していただいた経験もあります。笑
自分で限界値を決めずに、無理をすることで経験値は自ずと上がって、稼ぐ力が身につくということですね。
逆に覚悟をすべき点、我慢が必要な点などありますか?
稼げない、やりたいことが仕事としてできないことも普通にありますが、そこは我慢だと思います。ただ、我慢の期間を決めた方がいいですね。
フリーランスとして必要なことを3つあげるとしたら、なんでしょう?
1. 挑戦すること
2. 考えすぎないこと。(行動が遅くなるから)
3. 人を大切にすること。
どんな出会いがあるかわからないし、家族、仲間はもちろんのこと、人を大切にしないと自分も大切にされないと思います。
フリーランスを目指している方々へのアドバイス または、コメントをいただけますか?
勘違いをして欲しくないのは、「フリーランス=ストレスフリー」ではないということ。フリーランスには、仕事がなくなる不安、収入の不安定さなど、ストレスはきっと発生します。
しかし、束縛のストレス、監視のストレスがなくて、働く場所や時間も自分で決められます。
会社は1人で立て直すことは難しいかもしれませんが、自分だけなら立て直しも可能です。数十年後は所属している会社がどうなっているか予想できません。
それを考えると、稼ぐ力を身につけてフリーランスになるほうが会社員を続けるよりもリスクは少ないと私は思います。
また、私自身が経験したように精神を病んでしまった人や体を壊してしまった人にも元気を与えられる存在にもなりたいです。便利屋なので、悩みがあればいつでも相談してください。笑
高野さん、貴重なお話をありがとうございました!
自由の歩き方 編集部
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